「アキさん?」

 夕暮れのヤカミの街で買い出しをしている時に、背後から聞き慣れた声がした。振り返ると、蒼いサラサラとした髪の美しい、少し地味な顔立ちだが清潔感の漂う青年が驚いたような面持ちで佇んでいた。手には伝票のような紙を数枚持っており、それ以外の荷物は無い。

「ハヤノさん! こんばんは」
「うん、こんばんは」

 手に持っていたトマトをひとまず店頭に戻し、近寄ると、ハヤノは「あっ」と短い声を上げ、わたわたと手を振った。買い物の邪魔をしたならごめんと申し訳なさそうに謝ってくる。
 アキはきょとんとした後、そんなことはないと笑んで首を横に振ってみせた。

「ハヤノさん、気にしすぎ。会えて嬉しいですよ」
「え、あ……そ、そう? ありがとう。僕も、アキさんに会えて嬉しいです」

 友人同士にしては妙な会話だが、ハヤノ相手だと和んでしまうから不思議だ。この人は本当に優しげで控えめな人だなあとしみじみしつつ、彼の薄い水色の瞳を見つめた。

「ハヤノさんは?」
「んっ? ああ、僕は仕事帰りなんだ。これからギルドに行くつもりだよ」
「そうなんですか。お疲れ様です」

 ありがとうと微笑み、ハヤノはアキの腕にかかっている籠の中を一瞥すると、買い物中なんだねと改めて訊いてきた。

「ちゃんと自炊していて偉いな」
「ハヤノさんは、自炊じゃないんですか?」
「僕はそれほど料理が得意じゃないから。それに、仕事中はまかないを頼りにしていて、家では管理人さんが時々ごちそうしてくれるから、自分で作る機会って実はそんなに無くて。
 アキさんは偉いね。自分で稼いで、生活して……すごいなあ」

 まるで他人事のように言ってくるので、アキは苦笑してしまった。苦労しながら自活しているのはハヤノも全く同じだ。

「ハヤノさんだってすごいです。毎日頑張って働いて……私はハヤノさんの頑張りに比べたらまだまだです」
「そんな、アキさんの方が立派だよ。僕は元々……」

 言いかけて口を噤む。何だろうとアキが首を傾げると、なんでもないとハヤノはぎこちなく笑った。

「その、元々……ま、周りの人たちに色々お世話になっていたというか」
「そうなんですか。でも、今は一人で生活してるじゃないですか。すごいですよ」

 アキの言葉に、ハヤノは一瞬悲しげな表情で笑った。もしかしてつらい思い出でもあるのだろうか。彼にはその穏和な性格ゆえに繊細な所があり、傷ついても口には出さず、心の奥に押し込めてしまうタイプなのかもしれない。

「す、すみません。何か気に障ったなら」

 しゅんとしてアキがうつむくと、ハヤノはえっと驚いた声を出した。

「な、何が?」
「あ、い、いえ……その……何でもないです。ただ、一人で働いて生活してる人ってやっぱり立派だと思うから、私もハヤノさんみたく一生懸命働いて、誰かの役に立ちたいんです」
「あ、うん。そうだよね。誰かの役に立つのは難しいからこそ、達成できた時ってすごく嬉しいよね。
 僕は、アキさんも立派で素敵な人だと思うよ。憧れちゃうな、女の子で鍛冶師だなんて、とてもかっこいいし」

 なんだかさっきから同じ事を言っているね、とハヤノは頭をかきかき苦笑した。アキはハヤノの言葉に赤くなりながら、ありがとうございますと身体を小さくして頭を下げた。

「嬉しいです」
「いえいえ。あ、ごめんね、買い物中に引き留めて」
「い、いいえ! あ……あの」

 言いかけて、アキは自分の買い物籠の中を見つめた。中には、先ほど肉屋で購入した鶏肉とハーブが入っている。

「もし良かったら、お夕飯一緒にどうですか」

 籠の中身を確認すると同時に、その台詞が無意識に口から出てきて、アキは自分自身に驚いた。一体何を言っているのだろう。ハヤノを見上げると、彼はやはり目を丸くしていた。

「夕食?」
「あっ、ごめんなさい。その、今日の夕飯に使う材料が二人分はあるから、なんとなく……」
「え……あ、う、嬉しいけど……」

 いいのかな、と困ったように首をかしげている。慌てて「もちろんです」と答えると、ハヤノは初め非常に申し訳なさそうにしていたが、嬉しげな面持ちで頷いた。

「じゃあ、お邪魔させて頂こうかな。あ、でも、怒られちゃうかなあ」
「え? 誰に?」
「いや……色んな人に?」

 意味が分からずハヤノを見つめ返すが、彼は曖昧に笑うだけだった。疑問は残るが、気を取り直してアキは先ほど眺めていたスーパーの店頭に並ぶ野菜を見渡す。

「えっと……私、買い物してから店に戻りますね。ハヤノさんにはご飯ができた頃にいらしていただければ」
「えっ、僕も手伝うよ。作ってもらうなんて悪いし」
「でも、ハヤノさんはギルドに行かなくちゃ」

 気にしないでと後ろから覗き込まれて、アキはどきりとする。彼の優しげな微笑が間近だ。

「すぐに精算して戻ってくるよ。アキさんのお店に直接行けばいいかな?」
「あ……はい。その頃には、もう店にいると思いますから」
「分かった。じゃあ、急いで行ってくるね」

 いつになく勇んだ様子で踵を返し、走り出す。夕陽の中、アキが少し呆然として見送っていると、少し離れた人混みの中に、近くにいた人にぶつかって謝っているハヤノの姿があった。
 アキが「ゆっくりでいいですよ!」と慌てて叫ぶと、彼は振り返ってはにかみ、小さく手を振った。その様子が可愛くて、なぜかは分からないがアキの胸が熱くなる。そして、美味しい鶏肉のトマト煮込みを作るのだ!と、店頭に向き直って籠を手のひらにきゅっと持ち直した。